フィデル・カストロの素顔――通訳から見たリーダーの人間性

フィデル・カストロの素顔――通訳から見たリーダーの人間性

山中道子さん インタビュー 斉藤真紀子

キューバという国と人びと、そしてスペイン語に魅了されて60年――。キューバ大使館で大使のスペイン語通訳を務める山中道子さんは、長年にわたり日本とキューバの架け橋となってきました。フィデル・カストロ(以下、フィデル)の通訳を務めた山中さんに、間近で接したからこそ分かるフィデルの素顔や印象に残るエピソード、キューバへの思いを聞きました。

――フィデルと初めて会ったときの印象を教えてください。

山中 初めて会ったのは、1972年、キューバで通訳をしたときです。建設機械や鉱山機械の大手メーカー、コマツ(小松製作所)の視察に、通訳として同行しました。フィデルが扉を開けて入ってきた瞬間、圧倒的なオーラを感じました。憧れていた人物でしたが、実際に目の前にすると、ただ歩いているだけで周囲が息をのむようなカリスマ性がありました。

 当時、コマツはキューバに数多くの建設重機を輸出していました。社長がキューバを訪問することになり、代表団に同行したのです。フィデルは、工事現場でコマツのトラクターや機械がどこで何台使われているのか、鉱山の掘削に何台必要なのかといったことまで、資料を見なくても把握していました。コマツの社長も、その記憶力に驚いていました。

 ランチが終わると、突然、フィデルがジープを運転し始めました。そして、私たちを乗せて、現場を6時間ほどかけて案内してくれたのです。どの現場にどの機械があるのかを覚えていて、自ら先頭に立って誘導します。私たちはキャラバンのようにその後をついて歩き、何か所もの現場を回りました。

 ジープの運転席の隣にはコマツの社長が座り、後部座席には私と、当時の駐日キューバ大使だったリカルド・カブリサスさんが乗りました。カブリサスさんは、後にキューバの副首相になった方です。ジープが街を走ると、道行く人たちが「フィデル!」と声をかけます。子どもたちは歓声を上げながら手を振り、走ってきます。フィデルがキューバ革命の英雄で、多くの人に人気があることは知っていました。でも、その反応を目の当たりにして、「本当にこれほど人びとに愛されているのだ」と実感しました。コマツの社長が「私が代わりに手を振ります」と言って、人々の声援に一生懸命応えていたのも印象に残っています。

 現場では、労働者たちも集まってきて、フィデルに「機械はこういう具合だ」「しっかり動いている」と、直接話しかけていました。みんなに好かれ、尊敬されている革命の指導者とは、こういう人なのだ――。そう強く印象づけられた、貴重な体験でした。

――実際に通訳されたとき、フィデルはどのように話していましたか。

山中 初めてフィデルの通訳をしたので、最初はとても緊張しました。戦っている姿や写真を見ていたので、どこか近寄りがたい、威厳のある人という印象を持っていたからです。

 ところが、実際に会ってみると、とても親しみやすく、穏やかな雰囲気の人でした。人の話をじっくり聞き、それを受けて自分の意見を話す。一方的に話すのではなく、まず相手の話を聞く人だったことが印象に残っています。

――フィデルは1995年と2003年に来日しましたが、印象に残っている出来事があれば教えてください。

山中 フィデルが2度来日した際、いずれも通訳をしました。なかでも印象に残っているのは、2003年に広島を訪れたときです。フィデルは以前から「広島に行きたい」と希望しており、2度目の来日で実現しました。広島の慰霊碑で献花をするため、広島市役所に前もって花を準備していただいていました。通常、国家元首が献花する際と同じように、リボンには「キューバ共和国国家評議会議長 フィデル・カストロ」と記されていました。

 ところが、広島を訪れる日の明け方、駐日キューバ大使から私の部屋に電話がかかってきました。「コマンダンテ(フィデルの呼び名)が、『罪のない広島・長崎の犠牲者へ』という言葉をリボンに入れてほしいと言っている」というのです。

 すでに名前入りのリボンは完成し、準備はすべて整っていました。数時間後には広島に到着するというタイミングです。私は、広島市役所の担当者におそるおそる電話をしました。すると、担当者は少しも嫌がることなく、感動したような声で「わかりました」と答えてくれました。予想していなかった対応でしたが、フィデルの気持ちが伝わったのだと思い、私も心を動かされました。

――広島では、フィデルの判断力がうかがえるエピソードもあったのですね。ほかにも、通訳として間近で接したからこそ印象に残っている出来事はありますか。

山中 もう一つ、広島で印象に残っていることがあります。フィデルは広島で慰霊碑を訪れたあと、資料館を見学し、県知事や市長との会合を終えて、専用機で成田に戻る予定でした。その日の夕方、広島も成田も晴れていました。ところが、出発直前になって機長が天気図を見て、「今夜、上空は荒れるかもしれない」と言ったのです。

 飛行機の出発を取りやめて予定を変更するには、さまざまな手続きが必要です。駐機するにも運輸省本省の許可が必要でした。周囲には「出発しても、大丈夫でしょう」という声もありましたが、フィデルは「機長の言うとおりにしよう」と言いました。結局その夜は飛行機を広島空港に駐機し、翌日、成田空港へ向かいました。

 同じ専用機に乗っていた外務省の方が、後になって「夜、上空は大嵐になった。あのまま飛んでいたら危なかったかもしれない。フィデルに救われた」と話していました。

 フィデルは、600件以上の暗殺計画をすべてかわしたことで知られていますが、危険を察知する特別な感覚のようなものがあったのではないかと思いました。

 とはいえ、身を守るために何でも警戒し、リスクを避けていたわけではありません。

 日本の経済関係者の代表団がキューバを訪問し、革命宮殿でフィデルと会ったときのことです。私は通訳をしていました。ある日本人女性が「日本のお菓子です」と、ボンボンの入った箱をフィデルに渡そうとしました。すると、警備の人が代わりに受け取ろうとしたのですが、フィデルはそれを止め、自分で箱を開けて、ボンボンを一つ口に入れたのです。

 日本人に対する信頼もあったかもしれませんが、それを見て、危険を察知するときと、人を信頼するときの判断が、とても鋭い人なのではないかと感じました。今でも印象に残っています。

 空港などで、人びとがフィデルのところに集まってきて、挨拶をしようとしたときもありました。フィデルは、そうした人たちにもにこやかに接していました。警備の人たちは大変だったと思いますが、私が見ていた限り、人びとが近づいてくることを嫌がったり、避けたりする様子はありませんでした。

――外交の場だけでなく、フィデルと個人的に話をする機会もあったのでしょうか。日本に対する関心や親しみを感じたエピソードがあれば教えてください。

山中 2003年に来日したとき、少人数で天ぷら店に行きました。目の前のカウンターで、シェフが天ぷらを揚げてくれる店です。私はフィデルの隣に座りました。

 フィデルは食事中ずっと興味津々で、天ぷらの揚げ方や、一つひとつの食材について、「これは何?」と聞いてきました。例えば木の芽についても、「畑で採れるのか」「山で採れるのか」「旬はいつなのか」といった具合です。値段にも関心を持っていたので、私もその場でシェフに確認しながら説明しました。

 ハバナの駐キューバ日本大使公邸で開かれた夕食会でも、和食を「おいしい」と言いながらよく食べていました。フィデルは親日家でもあり、特に日本人の勤勉さや技術力を高く評価していました。だからこそ、日本からの視察団がキューバを訪れると、自ら迎えたり、現場に足を運んだりしていたのだと思います。

 キューバを訪れた日本人には、経済界の人だけでなく、市民活動家などさまざまな人がいました。フィデルと実際に会った人たちは、みなさん「素晴らしい人ですね」と感銘を受けていました。フィデルが日本に強い関心を持ち、日本との関係を真剣に深めようとしていたことは、実際に接した人たちにも伝わっていたのだと思います。

――1972年に初めて会ってから2003年まで、長い年月にわたってフィデルと接してこられました。その間に、フィデル自身の変化を感じることはありましたか。長年接するなかで、フィデルのリーダーとしてのあり方をどのように感じましたか。

山中 本人自身の変化は、特に感じませんでした。毎回、ハードなスケジュールをこなしながらも元気で、肉体的にも非常に強い人だと感じていました。とはいえ、2度目の来日時は、朝から晩まで会合が続き、たくさんの場所を移動して、広島にも行きましたから、さすがに疲れた表情を見せることはありました。

 フィデルについては、指導力や政治力など、いろいろな側面があると思います。でも、私が長年接してきて感じたのは、やはり人間性の大きさです。どんなときでも利己的ではなく、利他的でした。「みんなのために」という気持ちが非常に強かった。本人は質素な生活をしていて、不正に対しては強い怒りを持っていました。

 指導力や政治力という言葉だけでは表せない、人間としての強さがあった。だからこそ、世界中の多くの人から尊敬され、慕われてきたのではないかと思います。信念を貫く人でもありました。

――山中さんは長年、キューバと日本の架け橋として活動されています。そもそも、キューバと関わるようになったきっかけを教えてください。

山中 いくつかの偶然が重なって、今の仕事につながりました。大学時代にキューバ革命に興味を持ったのですが、ちょうどキューバ大使館で受付や雑用のアルバイトを探していたので、卒業後、働き始めました。当時はスペイン語もまったく分かりませんでした。

 大使館で働くなかで、キューバについて知ったり、キューバ人と片言のスペイン語で話したりする機会が増え、私にとって魅力的な経験でした。スペイン語が自分に合っているとも感じました。昼は大使館で働き、夜は学校に通ってスペイン語を基礎から学びました。大使館で働き始めて4年後、大使の通訳を務めるようになりました。

 最初は短期間のアルバイトのつもりでしたが、その後キューバを訪れる機会もあり、「なんて素晴らしい国なんだろう」と、ますますひかれていきました。それからずっと、大使付きの通訳をしています。 

――実際にキューバを訪れるようになって、どんなところに魅力を感じましたか。

山中 仕事以外でも、休暇を使って何度もキューバを訪れました。景色や自然、街並みもきれいでしたが、何より魅力を感じたのは人です。キューバという国そのものに、心を惹かれていきました。

 何度も訪れるうちに、街の人たちと触れ合う機会も増えました。あるとき、キューバ人の知人に地域の住民集会に連れて行ってもらったことがあります。行政区の議員が来て報告をする場で、住民一人ひとりが手を挙げて発言していました。

 バスをどうするかといった身近な問題についても、「この問題は解決してくれるはずなのに、まだできていない」と、皆さん真剣に意見を言っていました。市民が自分たちの問題について、これほど率直に意見を述べることに驚きました。

――フィデルが現場で労働者の話を聞いていたエピソードにも通じますね。

山中 そうですね。キューバでは、教育に力を入れていることも強く感じました。

 例えば、日本では小中高生に「8月6日は何の日ですか」と聞いても、答えられない人がいるといわれます。一方、キューバでは、大人だけでなく子どもたちからも広島や長崎の原爆について聞かれることがありました。

 人びとと街で話していると、「人間や社会の進歩を目指す」という考え方が、教育を通じて伝えられていることを感じました。

――長年、日本とキューバの架け橋として活動してこられた原動力は何でしょうか。そして、これから日本とキューバにどのような関係を築いてほしいと考えていますか。

山中 キューバには、いいところがたくさんあります。だからこそ、この国の役に立ちたいという気持ちが大きかったですね。しかも、キューバは長い間、大変な状況に置かれてきました。経済封鎖がなければ、どれほど素晴らしい発展をしていただろうかと思います。

 私が仕事を始めた頃から、すでに米国によるキューバへの経済制裁は始まっていました。それから長い年月がたち、制裁はさらに強化されています。今のキューバは、まるで窒息させられるような状況にあります。

 それでも、日本とキューバの間には、経済だけでなく、文化や科学技術など、さまざまな交流があります。日本では、キューバに対して明るく親しみやすいイメージを持っている人も多いと思います。科学の分野でも、退官した大学の先生方が、手弁当でキューバとの科学技術交流に取り組んでいる例があります。日本でキューバとの連帯や友好活動を続けている人たちもいます。

 そうした交流を通じて、これからもキューバのことが日本に伝わっていってほしいと思います。未来については、キューバが自由に、日本とも、ほかの国とも貿易できるようになってほしいと願っています。現在、日本とキューバの間では経済交流にもさまざまな困難があります。日本とキューバが自由に経済交流できる日が、一日も早く来てほしい。それが私の一番の願いです。

(終わり)

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